世界遺産・富岡製糸場と軽井沢①
こんにちは、福耳です。
お読み頂いてありがとうございます。
記念すべき?旅行記第一弾は、大河ドラマやブラタモリでもおなじみの『富岡製糸場』となりました。
目次
世界遺産・国宝としての富岡製糸場
富岡製糸場といえばこの建物。
「東置繭所」といい、乾燥させた繭を貯蔵した場所です。
この他、「西置繭所」・「繰糸所」の3ヶ所が平成26年に国宝に指定されています。
1階内部と一部2階の見学が可能。
富岡製糸場の概要
車での行き方
東京から富岡市まで:練馬IC(関越自動車道)〜藤岡JCT(上信越自動車道)〜富岡IC(約65分)
新潟から富岡市まで:長岡IC(関越自動車道)〜藤岡JCT(上信越自動車道)〜富岡IC(約150分)
上記 富岡製糸場HPより
併設の駐車場はありません。
徒歩10分弱あたりに市営駐車場がありますのでそこに停めました。
2時間45分停めて500円。少し遠めですが安いです。
もう少し近くに民営の駐車場もあります。
ガイドツアーで回りました
入場料は大人が1000円、学生250円、小・中学生150円となっています。(令和元年5月現在)
ガイドツアーが一人200円だったので参加しました。
ガイドさん手持ちの、カイコ、繭、成虫の実物大。
小さいな〜という印象です。
明治5年に官営工場として操業開始した富岡製糸場は、以来115年間にわたって休むことなく稼働し続け、日本の近代化を支えました。
フランス人技術者の破格の雇用契約や、当時の日本にはない工法の世界最大級の製糸工場、フランス積みのレンガによる優雅で堅牢な外壁など、殖産興業を旗印として、欧米の背中を追う明治政府の意気込みを感じることができます。
製造立国日本の原点は、ここ富岡での製糸業から始まったのですね。
なお、西置繭所は東側と同じ形をしており、現在のところ内部見学はできません。
国宝・繰糸所
長さ140メートルに渡って柱が一本もありません。
ここで15歳〜25歳までの若い女工さんたちが働いていました。
「女工哀史」のイメージとは違って、なかなかの好待遇だった模様。
画像はリーフレットより。
特に、この写真のような赤いタスキに高下駄の女性たちは「一等女工」とされ、プライドをもって働いていたようです。
富岡製糸場内の様々な住居(官舎・社宅)
首長館(ブリュナ館)
重要文化財・外観見学のみ。
設立指導者のフランス人ポール・ブリュナーさんの官舎。広すぎて写真に収まりません。
回廊風のベランダを持つ優雅な建物で、レンガ造りの重厚な地下室も残っています。
ここに家族5人で暮らしていました。
検査人館
重要文化財・外部見学のみ。
生糸の検査をしたフランス人男性技術者の住居として建設されました。
2階には「貴賓室」があり、皇族や政府要人の視察の際に使用されました。
大理石のマントルピースなどが当時のままの状態で残っています。
女工館
重要文化財・外部見学のみ。
日本人工女に糸取りの技術を教えるために雇われたフランス人女性教師4人のために建設されました。
当時の日本建築にはないコロニアル様式の柱が印象的です。
民営化後の社宅群
富岡製糸場は明治26年に三井家に払い下げられて三井富岡製糸所となったのち、
原合名会社に譲渡→(株)富岡製糸所として独立(片倉製糸紡績株式会社に経営を委任)、民営化されたのちも操業を続け、昭和62年3月に操業停止となりました。
敷地内には昭和30〜40年代の社宅が残っており、これらは内部を見学することができます。
これらを見て「懐かしい‥」と思われた方は私と同年代(笑)
見覚えのあるミシンも魔法瓶(死語)も、こうして歴史の遺物となっていくのかと感慨深いものがありました。
富岡製糸場を訪れた感想
平日(金曜日)だったせいか空いていて、ガイドツアー参加者も7人だけでした。
世界遺産に選定された当初はたくさんの観光客が訪れていたようですが、今は施設内も付近の町中にもあまり人がいない印象です。
確かに、世界遺産にふさわしい華というか、見せ場に乏しい感じはしました。
いくつかある建物も外部見学のみのものが多く、また見学可能な東置繭書も、何に使ったのかよくわからない道具類が観光客から見える位置にシートをかぶせられたまま無造作に置かれていたりして、もう少し見せ方に工夫があるといいのになと思いました。
日本人として、ぜひ一度訪れたい施設
それでも、やはり一度はぜひ訪れてほしい!
「日本が開発した生糸の大量生産技術は、かつて一部の特権階級のものであった絹を世界中の人々に広め、その生活や文化をさらに豊かなものへと変えました」(リーフレットより)
西欧世界から器械製糸技術を導入し、日本人特有の器用さと粘り強さをもってその技術を高め、近代養蚕技術を美しい生糸とともにまた西欧世界に返す。
その循環が、世界遺産として高く評価された所以なのです。
首長のブリュナー氏をはじめ、フランス人たちも協力を惜しみませんでした。
明治維新を迎えたばかりの、国家としてよちよち歩きだった当時の日本。
なんとかして西欧世界に追いつきたいという涙ぐましいまでの明治政府の努力と、それを良しとして支えてくれたフランス人技術者たちの、協力の証が美しい生糸だったのです。
この絹産業の成長により、日本はいよいよ工業国へと脱皮していきます。
ものづくりの国・日本の原点が、まさにここには存在しているのです。
下の写真は「ブリュナエンジン」(復元機)。
全長3.8m、奥行き2.4m。 重量2.7t。
製糸器を回転させる動力としてブリュナ氏が導入したためこの名が付きました。
まさか世界遺産になるとは思わず明治村に寄贈してしまい、現在返却交渉中だとか。
先人の遺した足跡に思いを馳せて、書きながら柄にもなくジ〜ンときてしまいました(汗)。
一人でも多くの日本人が見るべき施設であると、自信を持ってお伝えすることができます。
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