我が友「YAMAHAグランドピアノ C3B 1970年代製」との日々|45年を共有した「相棒」のこと
グランドピアノの音が狂ってきました‥調律して半年もたたないのに。
中高音の、ちょうど右手でメロディを歌い上げるあたりがスカスカな感じの音になってきたのです。
再び調律師を呼んで調整してもらいましたが、彼の言うことには「もう古いのでこれが限界。応急処置をしておきました」と。
あくまでも応急処置であり、時間の問題でまた狂いだすのは必至だそうです。
ついにこの時が来たか、と観念した次第。私は今、オーバーホールに出すかピアノの買い替えかの決断を迫られています。
そして、この古いグランドピアノ、YAMAHA C3Bとの日々を思い出しているところです。
目次
C3Bとの日々
出会いと旅路
思えば、このピアノとの付き合いは45年の長きに渡ります。ほぼ半世紀です(大雑把)σ(^_^;)
アップライトで乗り切った音高受験に合格後、両親が買ってくれたヤマハのグランドピアノ。「C3B」という、通常のクラスよりワンランク上の機種でした。
はじめて蓋を開けたときの、得も言われぬ木の匂いを今でもはっきり覚えています。
以来、このC3Bは私の「相棒」となりました。
音高から音大を卒業するまでの、時には一日8時間に及んだ弾き込みの時期。
結婚して新居へ移動。まだ子どもがいなかったので、またかなり弾きましたねえ。
次は夫の海外転勤に帯同すべく、船便でヨーロッパ某国へ移動。赤道を超える過酷な船旅は2ヶ月かかったと記憶しています。
現地で出産し、赤ん坊を抱えながら近所の主婦などにピアノを教えたこともありました。
帰国の辞令が下り、また2ヶ月かけて日本へ。
賃貸マンションに入居し、ママ友に子どもを見てもらいながらピアノを教える日々。
落ち着いた頃、賃貸マンションのオーナーが帰ってくるためまた引越し。
次に入居したマンションではピアノの音への苦情が出て賃貸に住み続けることを断念、一戸建てに引越しました。
子どもが幼稚園に通い出した頃に下の子を出産。すでにピアノを教えていたため、無認可の保育園の短期保育などを利用して乗り切りました。
下の子どもが幼稚園に入園してほっと一息。友人と合同発表会などを主催し、講師演奏としてよく連弾曲を弾いたものです。
ピアノ講師二人でガンガンに弾きまくり、また十分に応えてくれました。
不在
唯一の休息時期は、私が腱鞘炎を患って軽く絶望し、フラ(ダンス)にハマっていた頃です(о´∀`о)↓
何しろ、ピアノを弾くと引き攣れたように痛いわけです。しかも右手小指。これではシューマンやショパンなどロマン派はほぼ全滅です。
教える仕事はずっと続けていましたのでまったく弾かないわけにはいきませんが、幸い?この時の生徒はほぼ全員が初心者。
私自身はそれほど練習せずともなんとかなりました♪(´ε`;)
というわけで、この時期ピアノはお休み状態。
何しろ50代になってから新たに物事を学ぶのは大変です。しかもピアノが弾けない心の焦りを埋めるかのように意地になってフラの上達を目指したので、それはそれは大変でした。
ここだけの話ですが、まったくピアノの練習ができない日が続いたこともあります。♪(´ε`; ; )
このままピアノの先生は辞めて、フラの先生になってしまおうかとすら思ったものでした。
再会
そうはならなかったのは先の記事の通り。私はまたC3Bの前に戻って来ました。
幸い腱鞘炎が軽快し、曲を選べばなんとか演奏できるようになってきたからです。
フラにハマったおかげで手を休ませることができ、躍りまくって血の巡りも良くなったのかも?しれません(笑)。
このピアノブログ「鍵盤の旅人」を書き始めるとともにYouTubeに挑戦。
毎日毎日ピアノの前に座り、一定時間指を動かす日々の再開です。
C3Bの見たもの
思えば、C3Bと私との付き合いは私の家族の誰よりも長くなりました。
今、この子よりも長く私を見てきているのはこの世で母と妹の二人だけ。夫よりも、まして子どもたちよりも私たちの関係は長く続いています。
音高に入学したばかりの高校生だった私。バッハのインベンションが終わりきっていなかったなあ‥
生まれて初めてのピアノの生徒を迎えたのも、当然この子でした。当時、グランドピアノで生徒を教える教室はまだ今ほど多くなかったので、とても喜ばれました。
のちの夫が初めて家へ来て、ヘタ〜なソナチネを弾いたこともありましたっけ。
結婚とそれに伴う引っ越しのドタバタや地球の反対側への長い旅、気候の違うヨーロッパでの生活。
現地での出産と子育て、慣れない地での外国語での育児や生活、その苦労。
帰国と、また度重なる引っ越し。二人目の出産、子どもたちの成長とそれに伴うドタバタ、夫婦ゲンカ(;´д`)
多くの生徒たちとの出会いと別れ。父を見送った時の悲しみ。
C3Bはそれら全てを見ていました。
私があまりピアノに触れなくなっていた時も、C3Bは黙って見守っていてくれました。
調律だけは欠かさなかったので大きな狂いも不調もなく、ただただ私が戻るのをじっと待っていてくれました。
今またピアノの蓋を開けて、毎日練習するようになった私を見ながら苦笑しているのかもしれません。
C3Bとのこれから
C3Bは、45年以上の間、私とともに過ごしてきました。
15歳以降の私の人生の、ほとんど全てを知っているのはこの子だけ。なぜなら、家族にも言えない気持ちや心の動きを全て伝えてきたからです。
この楽器こそは私の友人であり相棒であり理解者であり、私の人生の同伴者でありました。
本当に、よく働いてくれました。
心から感謝しています。ありがとうね(*´∀`*)
さて、ちょっとくたびれてきた私たち。
これからどうしましょうか。
オーバーホールしてもう少し付き合ってもらうか、お互いに新たな相棒を探すか?
ゆっくり考えたいと思います。
お読み下さってありがとうございます。