ショパンとはどんな作曲家?プロフィールと年表まとめ|ピアノの詩人の生涯とは

フレデリック・フランソワ ・ショパンは、ポーランドが生んだ偉大な作曲家・ピアニストとして知らぬ者のない存在です。

ショパンのピアノ曲は、ピアノを学ぶ多くの人々にとっていつの時代も憧れのまと。

「いつかはショパンが弾けるようになりたい」という目標を抱いてピアノを習い始める人は珍しくありません。

 

でも、学校の音楽の時間にショパンについて詳しく学ぶことはまれ。

ピアノを習っていても、先生から直接ショパンの生涯について教えて頂けることは少ないのが現状です。

 

この記事を読めば、あなたはショパンについて他のピアノ学習者よりちょっとだけ詳しくなれるはず

あなたがショパンの曲を学ぶための助けになれば幸いです。

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ショパンのプロフィール

ショパンの写真

wikipedia/1849年に撮影されたショパン

基本データ

名前 フレデリック・フランソワ ・ショパン(Frédéric François Chopin)
出生日時 1810年3月1日(2月22日説あり)
出生地 ワルシャワ公国 ジェラゾヴァ・ヴォラ
幼年時の家族構成 両親・姉・妹2人
生業 作曲家・ピアニスト・ピアノ教師
主な活動地 フランス
配偶者・子供 なし
没日時 1849年10月17日

ショパンの特徴

フレデリック・フランソワ ・ショパンは、以下のような特徴を持つ作曲家です。

  • 19世紀前半に活躍した「ピアノの詩人」
  • 39歳で病没
  • 祖国への強い愛国心の持ち主

 

ピアノの詩人

ショパンは1810年生まれ、1849年没。19世紀ロマン派を代表する作曲家です。

ショパンの最も大きな特徴は、生涯に作曲した240曲ほどのほとんどがピアノのための曲であること。

彼の生きた時代、ピアノは大きく進歩し、88の鍵盤を持つ、ほぼ現在と同じ姿になりました。

ショパンは、ピアノという新しい楽器の性能と可能性を極限まで追い求めた、最初の作曲家であるといえるでしょう。

 

ショパンの作品は、その哀愁を帯びた旋律からは優雅さと悲劇性が、華麗さや力強さからは激しい情熱が感じられ、まるで文学のよう。

ピアノで熱く語りかけるような、あるいはロマンチックに歌い上げるような作風から、「ピアノの詩人」という呼び名で世界中のピアニスト・ピアノ愛好家に親しまれています。

39歳で病没

ショパンには慢性的な肺の持病がありました(近年の研究により肺結核との結論)。

体質的に似ているのか、妹エミリアは14歳で、父ニコラ(ミコワイ)は73歳で同じ病気により亡くなっています。

 

この病気はしつこくショパンを苦しめ、婚約者マリア・ヴォジンスキ伯爵令嬢との破談の原因のひとつになりました。

後年、同居した女性作家のジョルジュ・サンドの手厚い看護により病状が改善した時期もありましたが、彼女との破局とともに悪化。

姉ルドヴィカと、数人の親しい友人に見守られつつパリで短い生涯を終えました。

愛国心

ショパンは強い愛国心の持ち主として知られています。

「11月蜂起」の失敗によるワルシャワ陥落の報を受けて絶望し、エチュード(練習曲)Op.10-No.12「革命」を作曲したという逸話は有名。

関連記事はこちら↓

ポーランドはショパンのふるさと|どんな国?特徴と歴史・日本との関係をピアノ講師目線で解説!

 

また反ロシア感情が強く、パリ在住中に旅券更新のためのロシア大使館への出頭命令を拒否し、亡命者となってしまいました。

長くフランスに暮らしながらも望郷の気持ちはやまず、ポーランドの民族舞踊であるマズルカとポロネーズのピアノ曲を数多く作曲しました。

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ショパンの生涯

ショパンのピアノ

wikipedia/マヨルカ島のショパンのピアノ

出生・幼年時代

ショパンのフルネームは、ポーランド語ではフリデリク・フランチシェク・ショペン(Fryderyk Franciszek Chopin)。

生年月日は諸説あり、現在のところ1810年3月1日が有力ですが、彼の生まれた教区の洗礼記録によれば2月22日となっています。

1810年時点、ポーランドという国家は存在せず、ナポレオンの創設したワルシャワ公国で出生しました。

父はフランスからの移住者でフランス語教師、母は没落したポーランド貴族の娘。

姉と2人の妹とともに、両親の愛情をたっぷりと受けて育ちました

少年時代

知性と教養あふれる両親は常に家庭に音楽を絶やさず、ショパンは早い時期から高いレベルの音楽教育を受けることができました。

高名な師にも恵まれ、ショパンはめきめきと才能を伸ばしていきます。

7歳で最初のピアノ曲「ポロネーズト短調」を作曲、自費出版して注目を浴びました。

またワルシャワでのデビュー演奏会が成功をおさめたため、王族や貴族たちの宮殿に招かれて作品を披露するようにもなりました。

青年期

19歳の時、父はショパンの才能をさらに飛躍させるべく、海外留学のための援助を国(ポーランド立憲王国)に申し出ました。

が、頭のかたい政府の役人は「交響曲やミサ曲などを書いていない」ことを理由にこれを拒否。典型的なお役所仕事です。

結局、卒業旅行として音楽院の友人たちとウィーンへ行き、デビュー演奏会で成功を収めました。

 

20歳にしてすでに作曲家、ピアニストとして一定の成功を納めていたショパンは、ヨーロッパの辺境であるワルシャワから西へと活躍の場を求めていました。

ワルシャワの政治情勢が不穏になりつつあったため、周囲から国外への脱出を進められたという説もあります。

 

しかし、反ポーランドの気運の高まっていたウィーンでは以前と違い活躍できなかったため、ショパンはパリに移動し、居を構えます。

こうしてショパンの39年の生涯のうち、前半の20年はワルシャワ、後半は父の祖国であるフランスが主な音楽活動の拠点となっていきました。

 

パリではロスチャイルド家などの貴族や富豪たちのサロンへの出入りを許され、サロンコンサートの依頼が殺到。

また、ショパンはピアノ教師としての優れた資質を持ち、高額なレッスン料にもかかわらず弟子入りを望む貴族の子女はひきもきらず。

生活は安定し、「12の練習曲集Op.10」「バラード第1番ト短調Op.23」などの優れた作品を発表しました。

ジョルジュ・サンド

ショパンは生涯を通じて結婚することはなく、子供はいません。

25歳〜27歳ごろにかけて、マリア・ヴォジンスキ伯爵令嬢と交際、婚約しましたが、健康不安を理由に破談。

失意の彼に手を差し伸べたのが、女性活動家で作家のジョルジュ・サンド(本名オーロール・デュパン)でした。

 

サンドについては「彼女がショパンの生命を縮めた」と批判的な論もありますが、10年近くに渡り健康の悪化するショパンを支え、数多くの優れた作品を世に出す土台となったこともまた事実です。

いずれにしてもサンドとの関係は、彼女の2人の子供とのトラブルにショパンが巻き込まれたことで1847年にあっけなく終わりを迎えます。

サンドを失ってから、ショパンは急速に衰えていくのでした。

晩年と最後

1848年、パリでは二月革命が勃発。

音楽どころではない雰囲気が漂い、劇場は閉鎖され、多くの貴族や富裕層はパリを離れてしまいました。

生活に困ったショパンは、銀行家の娘で弟子のジェーン・スターリングと姉のキャサリン・エースキンの提案でロンドンでの演奏旅行へ。

スターリング姉妹の金銭的な支援とプロデュースにより、弱った身体に鞭打って演奏会を開き、希望者にピアノのレッスンをするという生活を続けました。

 

1848年11月に帰国してすぐ病の床につき、1949年6月には自らの死期を悟って姉ルドヴィカに来てくれるように手紙を書いたショパン。

同年10月17日、ルドヴィカとごく一部の親しい友人に看取られてこの世を去りました。39歳でした。

ショパンの遺言に従い、心臓だけはルドヴィカによって祖国に運ばれ、ワルシャワ中心部の聖十字架教会に安置されました。

彼の肉体はパリに埋葬されましたが、心臓(心)はポーランドに還ることができたのですね。(´;ω;`)

 

10月30日、パリのマドレーヌ寺院で行われたショパンの葬儀には3000人を超える人々が集まり、彼の死を悼みました。

その中にジョルジュ・サンドの姿はありませんでした。

 

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ショパンの年表

ショパンとサンド

wikipedia/ドラクロワによるショパンとサンドの肖像

以下、ショパンの経歴と代表的な作品を、ワルシャワ時代とフランス時代に分けて時系列に沿ってまとめてみました。

年表にあげた代表曲のうち、特に有名な曲を赤文字、比較的有名なものを太文字で表しました。

なお、赤文字の曲に関しては以下の記事で解説しています。↓

ショパンの有名ピアノ曲作品10選|曲の難易度と背景/特徴・演奏上の注意点を年代順に解説!

ワルシャワ時代

1810年(0歳) ワルシャワ公国ジェラゾヴァ・ヴォラにて出生(2月22日または3月1日)
1814年(4歳) 姉、母からピアノを習い始める
1816年(6歳) 作曲家・ピアニストのヴォイチェフ・ジヴニーに師事
1817年(7歳) 最初の作品「ポロネーズト短調」作曲・自費出版
1818年(8歳) ワルシャワ・ラジヴィウ宮内劇場にて慈善演奏会
1822年(12歳) ワルシャワ音楽院校長ヨゼフ・エルスネルに師事。作曲と音楽理論を学ぶ
1823年(13歳) ワルシャワ高等学校4年生に編入
1825年(15歳) 最初の商業出版作品 ロンドハ短調 Op.1 発表
1826年(16歳) ワルシャワ高等学校を退学・ワルシャワ音楽院入学
1827年(17歳) 妹エミリアが結核のため死去
1829年(19歳)
  • ポーランド立憲王国政府に国費での留学を拒否される
  • ワルシャワ音楽院を主席で卒業
  • ウィーン ケルントナートーア劇場にて演奏会を開き、成功をおさめる
  • ワルツOp.70-No.3 変ニ長調(「別れのワルツ」・遺作)作曲 ✳︎1
  • 12の練習曲Op.10 に着手
1830年(20歳)
  • 夜想曲第20番嬰ハ短調「レント・コン・グラン・エスプレッシオーネ」(遺作)作曲
  • ピアノ協奏曲第2番ヘ短調 Op.21 作曲、ワルシャワにて初演✳︎2
  • ピアノ協奏曲第1番ホ短調 Op.11 ワルシャワでの告別演奏会にて初演
  • ワルシャワを立ちウィーンへ向かう
  • ウィーンにてワルシャワでの武装蜂起「11月蜂起」の報を聞く
  • 1930〜1932年にかけて夜想曲Op.9、マズルカOp.6、Op.7など作曲
1831年(21歳)
  • ウィーンを立ちパリに向かう
  • シュトゥットガルトにて「11月蜂起」の失敗とワルシャワ陥落の報を聞く
  • 練習曲Op.10-No.12 ハ短調「革命」作曲

✳︎1、2は初恋の相手コンスタンツヤ・グワトコフスカを想って作曲されたと伝えられる

フランス時代

1831年(21歳)
  • パリに居住。
  • ワルツOp.34-No.2 イ短調作曲
1832年(22歳)
  • カルクブレンナーの援助により「プレイエル・ホール」にて演奏会を開き、成功をおさめる
  • ラジヴィウ公爵の紹介によりロスチャイルド家などの貴族のサロンに通うように
  • リスト、メンデルスゾーン、シューマン夫妻、ハイネ、ドラクロワらと親交を結ぶ
  • 5つのマズルカ Op.7
  • 練習曲Op.10-No.3ホ長調(「別れの曲」)作曲、3つの夜想曲 Op.9 出版
1833年(23歳)
  • 貴族・富裕層の子女へのピアノ指導が評判になる
  • 「12の練習曲集」Op.10 (「別れの曲」「革命」含む)出版、リストに献呈
  • 「華麗なる大円舞曲」Op.18 変ホ長調作曲
1834年(24歳)
  • 幻想即興曲嬰ハ短調 Op.66(遺作)作曲
  • ロシア大使館への出頭命令を拒否、亡命者になる
1835年(25歳)
  • 両親と再会/マリア・ヴォジンスキ伯爵令嬢と交際
  • スケルツォ第1番ロ短調Op.20作曲
  • バラード第1番ト短調Op.23作曲
1836年(26歳)
  • マリアに求婚
  • 12の練習曲Op.25に着手、「エアリアン・ハープ」「木枯し」など作曲
  • 女性活動家・作家のジョルジュ・サンドに出会う
1837年(27歳)
  • マリアとの婚約が解消される
  • 12の練習曲 Op.25(「エオリアン・ハープ」「木枯し」含む)出版
  • スケルツォ第2番変ロ短調Op.31作曲
1838年(28歳)
  • ジョルジュ・サンドと交際、彼女の2人の子共とともにマヨルカ島へ
  • 「3つの華麗なる円舞曲」Op.34出版
  • 2つのポロネーズOp.40(「軍隊」含む)、4つのマズルカOp.41など作曲
1839年(29歳)
  • 健康状態が悪化、マルセイユで療養したのちサンドが別荘を持つノアンへ
  • 24の前奏曲 Op.28出版(「雨だれ」含む)出版
  • ピアノ・ソナタ第2番 変ロ短調Op.35「葬送行進曲付き」作曲
  • バラード第2番 ヘ長調 Op.38、スケルツォ第3番 嬰ハ短調 Op.39 作曲
1840年(30歳)
  • このころより春〜秋はノアンで作曲、冬はパリでピアノ指導をして過ごすように
  • 大円舞曲 変イ長調 Op.42 作曲
1841年(31歳)
  • バラード第3番 変イ長調Op.47
  • 幻想曲 ヘ短調 Op.49
1842年(32歳)
  • 3つのマズルカOp.50
1842-1843年(32-33歳)
  • バラード第4番ヘ短調Op.52作曲
  • ポロネーズ変イ長調「英雄」Op.53 作曲・出版
  • スケルツォ第4番ホ長調Op.54作曲・出版
1844年(34歳)
  • 子守歌 変ニ長調 Op.57
  • ピアノソナタ第3番ロ短調 Op.58
1845-1846年(35-36歳)
  • 舟歌 嬰ヘ長調Op.60
  • ポロネーズ変イ長調「幻想」Op.61
1846-1847年(36-37歳)
  • 3つのマズルカOp.63
  • 3つのワルツOp.64(「子犬のワルツ」含む)
1847年(37歳) ジョルジュ・サンドと破局
1848年(38歳)
  • パリで最後の演奏会を開く
  • スターリング姉妹のプロデュースによりロンドンに演奏旅行
  • ヴィクトリア女王の御前演奏会
  • パリに帰還
1849年(39歳)
  • マズルカ第49番Op.68 No.4
  • ルドヴィカに手紙を書く
  • 10月17日、死去

まとめ

ワルシャワ ワジェンキ公園

ショパンのプロフィールと作曲家としての特徴、代表曲を生涯年表としてまとめてお伝えしました。

こうしてみると、39年という短い人生のなかに、人として、音楽家として、様々な事象が凝縮されているのが分かります。

 

最も幸福だった子供時代、若き天才としての日々、パリでの絶頂期、サンドとともに過ごした円熟期とその終わり。

そして周囲の大国に翻弄される祖国への愛情と望郷の念。

それら全てがショパンという作曲家を形づくる要素となっているのですね。

 

最愛の姉によって、ショパンの心臓のみが祖国に帰還することができたというエピソードはとても象徴的です。

ショパンの音楽は、彼の心臓の音。

私たちピアノを学ぶ者は、ショパンに感謝しつつ、今日もピアノに向かいます。

これから先もずっと、ピアノという楽器が存在する限り、ショパンの音楽がこの世から絶えることはないでしょう。

 

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